なぜ勉強するのか?なぜ本を読むのか?

岩波文庫

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こんにちは、しぶとく生きるAnorakです。

最近、ちょっと色々と本を読んで考える時間があって、改めて、

・・・まあちょっと僕の人生には改める事が多すぎて、改める意味がだいぶ薄いような気もするんですが、

とにかく改めて勉強とか読書することの意味を考えたというか、まあそういうと大げさになってしまうんですけど、いろいろ考えたんで、ちょっと書きつけてみます。

最近読んだ本

先週から何年か越しで、読みかけたままになっていたトルストイの「人生論」を読んでいます。

岩波文庫で250ページくらい。

30ページくらい読んだところに紙がはさまってたんで、そこらへんまで読んだみたいですが、そのまま数年放置されてました。

トルストイといえば、ロシアの大作家で有名な長編小説がありますが、人生論は小説ではなく哲学的な著作です。

内容は題名そのまんまで、人生をどう生きるべきか、ということについて書いたもの。

哲学というと難しい熟語が並んで、読んでもさっぱりわからないというのを想像するかもしれませんが、この本はそういう方の哲学ではなくて、もっと人生を直視したわかりやすい内容です。

この本についてはそのうち書きたいと思いますが、この本を読んで、それについて色々と考えているうちに最近すさまじく劣化していた僕の頭脳が少しずつ動きだしました。

それとともになにか目の前のもやがすーっとひいて、目がはっきり見えるようになりました。

そうすると目の前のものがよくみえて、実に興味深く、なんだか生活が面白くなってきた気がします。

読書の功

人生論で、人生はこうあらねばならぬということをとかれて、ああそうかとそれに納得して改心したから生活が面白くなったというのではなくて、

まあそれもちょっとはあるかもしれませんが、

トルストイの文章にふれたことによって日常で凝り固まったものの見方とか感じ方の一部がほぐされたというか、敏感になったというか、とにかくその時までまったく不感で鈍かった僕の神経が再び動きはじめた感じがあります。

 

それで思い出したんですが、

これもしかしたら前にもこのブログで書いたかもしれません、長く書いてると何を書いたんだかわからなくなる・・・

僕が音楽を聴き始めた頃、ある特殊な聴き方をしていました。

それは知らない曲を、まあだいたい30曲(楽章)くらいをセットにして10回聴き、聴き終わったら聴きやめて、次の知らない曲を聴くというもの。

なんでそんなことをしていたかというと、

クラシック音楽を聴き始めた頃、聴く曲聴く曲ほとんどしらない曲で、しかもどれも数十分とかなり長いものばかり、聴いていてもたいてい飽きて眠くなってくる。

テレビでオーケストラの演奏なんかをよく見ましたが、寝ている時間のほうが長いくらいでした。

ただある時、なんの曲だったか、テレビのCMか何かで流れていて、すでに知っている曲をオーケストラがやったんですが、それを聴いた時にひどく面白く感じたんです。

そこで僕は気が付いた。

知らない曲を聴くよりも、知っている曲を聴いたほうが面白い。

このだれでも知っている馬鹿みたいな法則を見つけ出した僕は、

例えば演奏会など行ったとして、プログラムの曲を知っていれば知っているほど面白いだろう、と思い立って、

なるべく多くの曲を知った状態であるべきだ。

と思ったのです笑

当時の「知っている」というのは「メロディーを記憶している」くらいの意味だったんですが、1回きいて覚えられるほど記憶力が優秀じゃなかったんで、だいたい10回くらい聴けばまあおおよそ把握できるだろうってところで、そういう聴き方をしていました。

 

で、何が言いたいかというと、何事も、知っている方が面白いと思うのです。

僕はまず音楽に目がむいて、ヴァイオリンをやり、ピアノをやり、楽典、音楽史、和声、対位法と色々やって知れば知るほど音楽が面白くなりました。

他のこともそうだと思うのです。

トルストイの人生論を読んで、トルストイのいう動物的自我、合理的意識とは何か?ということを読んで、考えることで、人生に転がっている諸問題が急に気になり出した・・・

人生というと話が大きくなるんで、例えとしてはあまりよくなかったかもしれませんが、

どんな小さいことでもいいんです。僕は色々知っている方が面白いと思います。

それで、勉強するとか読書をするということの意味の一部もそこにあるんじゃないかと思うわけです。

余談

話がずいぶん遠回りして、ようやく本日の結論に落ち着いたところで、以下は余談です。

気がつけば、2020年の2月になっていて、全然ブログ更新できていないなあと考えていたんですが、

なんと去年の更新回数6回・・・笑

このブログを今後どうしていこうかとちょっと考えました。

頻繁に更新していたころに比べてかけられる時間が少なくなってしまって、どうしても当時とくらべて内容を充実させるのが難しくなってしまったのが大きかったんですが、

もうこうなってしまったらできることをやるしかない!

と最近は思いはじめて、多少内容が薄くてもとにかく更新してみよう、という気持ちになってきました。

 

それにとくにここ数年でインターネット上の発信力というのがある人の人生を大きく左右するほどになってきていて、僕みたいな社会不適合者が今後生き残っていくためにはある程度そちらの方面に適応していく必要もあります。

うまくやっていけば今後生きていくために助けになるかもしれない。

いまこのブログは更新頻度が少ないこともあり、そこまでの力はもっていないんですが、

今後今日書いたような、どういう風に人生を面白くしていくか?ということについて、より発信できたらよいと思っています。

僕が書けるのはほんの一部、これまで書いてきた、ことばに関わること、芸術に関わること、くらいのものだとは思いますが、

このブログを読んでくれたみなさんの生活がちょっとでも面白くなればそれは非常に嬉しいことでもあります。

まあ、というわけで、今回はこれでおしまい。

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4 件のコメント

  • 4年ほど前から楽しく読ませて頂いてます。過去の記事も読み返すことがあります。もうファンと言ってもいいような笑 Anorakさんのブログは学びもあり、発見もあります。一度お礼が言いたかったのでコメント残します。ありがとうございます😌

    • りたださん
      こちらこそ読んでくださりありがとうございます!
      4年前っていうとほとんどブログ始めた頃から読んでくださっているってことですね。感激しました笑
      お礼をいわれるような発信ができているかわかりませんが、今後もできるだけブログなどで発信できたらいいと思っているので、たまにのぞきにきてください。

  •  はじめまして、通りすがりのものでございます。人様の記事を拝見するときは大概ならROMに徹するのでございますが、この記事が心の琴線にふれましたので憚りながらコメント欄を汚さして戴きます。
     Anorakさんはこの記事で「色々やって知れば知るほど音楽が面白くなりました。他のこともそうだと思うのです」と仰っしゃいますが、私はこの言葉に全身の共感を覚えます。恥を申さねば理が聞こえませぬが、私は生得音痴で音楽のことはまったく分かりません。もっとも小説のことは少し勉強しておりますので、その勉強したことを思い返してみて「ああ、たしかに小説を勉強することで人生観が変わったかも知れないなあ」と感じたのでございます。それ勉強なるものはしているときは退屈であったり辛かったりするで、かつては私も「勉強なんかして将来なんになる」と云ってしまうような世の常の学生でありましたが、漢文を素読すること然り、微積分を演習する然り、そのときは何の役に立つか分からぬ勉強も追い追い理解が深まってゆけば自分の日常生活と接点の見つかることがなきにしもあらずでございましょう。されば勉強をする意味が分からぬとて勉強をしない理由にはなるまいとも思われます。
     私は後期トルストイの民話は多少読んでおりますが寡聞ゆえ『人生論』は読んでおらなんだのみか知りもせなんだので、おもしろそうな本を教えて戴いてありがとう存じます。このブログからお見受け申すところAnorakさんは勉強家かつ人柄のよい方でいらっしゃり記事を読んでいて楽しゅうございますのでこれからも折々このブログを拝見しようかしらと存じます。一読者として陰ながら応援しております。

    • ご丁寧なコメントありがとうございます。
      はじめ何か目的があってすることが、取り組むうちにそれ自体が目的になるということを僕は何度か経験しています。
      ちょっとわかりにくいので言い直すと、試験のために語学の勉強をしていたのが、勉強するうちに語学そのものが面白くなってしまうような、そんな類のことです。
      そうすると僕はそのあたり極端すぎていつも失敗するんですが、はじめの目的などどうでもよくなってしまいます。
      話は変わりますが、漢文を学ぶことは明治のころまでは今よりずっと実用に適ったことだったのだと思います。
      まだ文語が生きていましたし漢文調の作文などが日常生活で必要だったのです。
      文語が死んでしまった今は当時と事情が変わり、そのなにか形だけが亡骸のように残っていて、
      だから現実と解離したような感じが漢文を学ぶときにあるのだと思います。
      そして学習に関わる色々なことが、似たような状況にあるのだと思います。
      それに加えて世論として知的なものに対する反抗心のようなものを感じるときもあります。
      細かく記録を辿ると教育に関わる役人のエゴがあるのもわかります。
      とにかく色々と絡み合って複雑になっています。
      でも何も加味せずちゃんと向き合うと面白いものは面白いもので、
      ただ、僕はこれが一番大事ものだと思うんですが、「裏にある未知の面白いだろうものを嗅ぎ分ける力」さえあれば、
      一見意味のないことでもそれ自体を目的にできるのだと思います。
      僕は運良く面白いものばかりあたるのですが、それは運だけではなくて、何か歴史とか前人を信じているからだと思います。
      今になってみればなぜ勉強するのかという問いはとっくに回答ずみで、
      単純に「面白いから」という一言につきます。
      ただし、注として「勉強というのは学校でいう勉強とは違う」というだけです。試験のためではないのです。
      丁寧なコメントをいただいたので丁寧に返そうと思って書き始めましたが、これがうまく返しになったかはわかりません。
      この所ろくに勉強もせずぶらぶらしているので、あまり期待に添えるとも思われませんが、よければまたきてください。
      最近は無謀にもYouTubeに動画をあげているのでそちらの方が高頻度の更新になると思います。
      始めたばかりですが、よければそちらも見てみてください。

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