今週のお題「私のおじいちゃん、おばあちゃん」
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の「怪談」の中に「耳なし芳一の話」というのがある。
※「怪談」については『小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の「怪談 Kwaidan」を読む』で書いた。
平家の霊に騙(ばか)されている芳一のために和尚と寺僧は芳一の身体中に「般若心経」を書き付ける。
身体に書いた般若心経のために平家の侍の霊は芳一の姿を捉えられず、芳一は危機一髪のところで難を逃れる。
お盆にあった不思議な話
般若心経(般若波羅蜜多心経)は三百字にも満たない短いお経で、これはかの玄奘三蔵(三蔵法師)がインドからテキストを持ち帰って漢訳したというあり難いものだが、中身は仏教のおしえを説くもので、悪霊退散!というものではない。
ただ日本では仏壇や墓に向かってお経を唱えるのを見てもわかるとおり霊的なものとの結びつきがある。
僕もそれにもれず何か霊的なものを感じたとき、不穏な空気を覚ったとき、般若心経を唱える。
般若心経を僕は暗記している。
これは僕が先生についてドイツ語を始めたとき、まず出された課題のひとつであった。
暗誦など中学生以来していなかったので苦労したが、なんとか覚えきった。
それ以来たまに唱えてみては、ある部分が朧になり、そこを確かめる、また忘れるというのを繰返してというように、仲良くやっている。
ところで僕は般若心経を以前から知っていた。
僕の母の実家は例の大きな川のある町にあって、一族がかたまって住んでいる。
その本家ともいうべき家に僕の曾祖母が住んでいた。
その家は曹洞宗で、曹洞宗では般若心経を日常的に唱えるので、僕の曾祖母も毎日仏壇に向かって般若心経を唱えていた。暗誦していた。
曾祖母は数年前に亡くなってしまったが、おそらく何十年も続けた、毎日般若心経を唱える姿は一族みんなの脳裏に焼きついている。
お経が読めるのは曾祖母が最後だったから、曾祖母が亡くなって以来、仏壇にお経をあげる人はいなくなってしまった。
これは今年の夏、お盆ごろの話である。
お盆になると毎年家族で父母それぞれの家に墓参りに行くのが恒例なのだが、今年は各々用があったので後日集まれる日に改めて行くことになった。
というわけでお盆直前の某日も僕は自分の部屋で眠りについた。
夢を見る。
・・・
暗い、長い、廊下の先の物陰にぼうっとした姿で誰かが立っている。
暗い中からこちらを見ている。
僕はすぐにそれが幽霊だとわかった。
背筋が硬直したようになって、すさまじい悪寒がする。
僕はいつもするように、すぐに般若心経を唱え始めた。
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄・・・・・
そうすると、僕が近づいたのか、霊の方が近づいたのか、僕と霊の距離は急に近くなって見え方がはっきりした。
近づいて見るとそれは曾祖母だった。
曾祖母は僕をみると、
「お仏壇に般若心経をあげて・・・」
と言った。
それきりで夢は終わってしまった。
僕はこの夢を見てすぐ誰かに話そうと思ったのだが、だいたいの夢がそうであるように、朝をむかえて、そのうちに忘れられてしまった。
そして9月に入り、遅れたお盆参りをした。
といっても親戚に顔を見せるくらいのものであったが、今は曾祖母の長女、つまり僕の祖母の姉が住む本家に行って、仏壇に線香をあげたときあの夢が急に思い出された。
「そういえば、ひいばあちゃんが夢に出てきて、仏壇にお経をあげてっていってた。」
と僕が言って詳しく話すと、その時偶然親戚一同が会していたのだが(祖母は四人姉妹)、騒然となり、是非僕がお経を上げることになった。
僕が仏壇の前に厚い綺羅とした座布団を敷いていると、皆集まって急に大事になってきた。
僕は自分ひとりで勝手にあげるつもりだったからやや困って、妹にも一緒によんでもらうことにした。
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄・・・・・
これまで仏壇に向かって般若心経を唱えたことはなかった。なんとかよみ終えたがどうも下手だったろうと思う。坊さんのあの声は一体どこからでるのだろうか。
その後僕は畑に野菜をとりに行ったのだがしばらくして僕が戻ると、急に
そのカーテンが危ない
だの
椅子が近すぎる
だの
話している。
僕はよくわからないまま窓からレースのカーテンを外して、重いソファーを動かした。
祖母の姉が、
別の部屋みたい
というくらいの大模様替えだった。
皆、よかったよかったと満足そうなので、僕もとにかくよくわからないがよかったと思った。
あとから聞いてみると僕が野菜をとっている間に家では僕の夢になぜ曾祖母がでてきたのかという話になったらしい。
それで最近年をとって物忘れがはげしくなってきた祖母の姉を心配しているのではということになり、
そういえばあのレースのカーテンは火(ストーブ)が近くて危ないと前から思っていた。
とか
このソファーもストーブから近すぎる
とか
とにかく前から危ぶまれていた諸々のことがそれぞれから流れ出てきたというのだ。
もしあの夢を見なかったら?
火事になっていただろうか、それはわからない。
僕は法事のとき以外長いことよまれていなかった般若心経をあげられてよかったと単に思われてすがすがしかった。
僕が般若心経を覚えたのは先祖を想う気持ちからではなかったけれど、それが仏壇にあげられて、家の模様替えに繋がったことは考えてみるとやはり不思議で、面白い出来事であった。
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