我が先生も、Tままさんもそして僕もみんな古本病にかかっているわけですが、
毎度古本屋とかブックオフの前にたたずんで、
「はいってしまったらまた大変なことになりますけど、どうしますか」
などと話します。
「じゃあ”買わない”ことに決めて一回りだけしましょう」
とこれ以上に疑わしい言葉はないと思われることを、これまた毎度口にして結局はいっていきます。
そして手に重い荷を提げて出てくる・・・
お口直しの読書術
先生とTままさんはすでに熟練の読み手だからまだよいのでしょうが、僕のような本を”買うこと”だけ達者になってしまったものからすると、あまりたくさんの本を買ってもどうしようもない。
第一僕は読書好きではない。
これまで読書に関わる記事をいくらか書いてきて、もしかすると僕が読書好きと思っているかたも居られるかもしれませんが、読みこそすれ好きというわけでもないのです。
好きでもないのに毎日まいにち本を読むというのは不可解かもしれませんが、僕にとっては修行のようなもので、せねばならぬものです。
本に自ずから惹き付けられている人は幸福だと思いますが、僕のような才のない読者でも読んだ本を心の財産にすることはできます。
何かしら益にならぬことならする必要もないのですが、僕にとって、まあ今のところは読書ほど益になることはありません。
好きな本と苦手な本
好きな本ばかり読むのも、それはそれでよいと思いますが、やはり偏りができるでしょう。それに広く知ることでわかることもある。
苦手なものでも、読めばそれなりに面白くてためになるものなので、僕はなるべく偏らないように読むのを心がけているのですが、苦手なものを読むというのは相当に辛いものです。
少し前、谷崎の「蓼喰ふ虫」を読んでいましたが、夫婦の不仲を延々と見せられて実に不愉快でした。
話は不愉快でも、文体の見事さや、途中ある人形浄瑠璃の場面の面白さがあって結局読み終わった後「よかった」と思ったのが不思議です。
なんでも”のどもと過ぐれば熱さを忘る”が適応せられて、後味の悪くないものはよい本になるのがいつも、後ろから不意に突かれたような気持ちです。
そのあとやっかいなものを読んだ口直しにと思って漱石の「二百十日」を読むことにしました。
この二百十日はこの記事で書いた「草枕」や、
「野分」という作品と関連のあるもので、熊本の阿蘇を舞台にしたものですが、特殊な事情のもとに書かれたのでまあ中身も特殊というか、まあそれは読めばわかるのですが、とにかく草枕野分と聯関のあるこの短編を読み逃していたので読んだわけです。
一体漱石の、特に初期の作品は、若々しく活発なところがあって、非常に爽やかなのですが、これが口直しによかった。
小説は長いものもありますが、二百十日は短く会話が主体のものなので読みやすいものでしょう。
内容はともかく、こういう古い読み物に挑戦したい人にはいいかもしれません。
僕は1日か2日で読みました。
自然主義の文学
先生と蓼喰ふ虫の話を何度か重ねましたが、先生は
自然主義に反したはずの谷崎が夫婦の生活を自然主義的に長々と書いたのは不思議な話だ
というので、僕に次の課題が出されました。
自然主義という言葉を知らないという方も居られましょうが、これは主に個人の身辺のことをありまま客観的に書くというもので、西洋のナチュラリズムの訳です。
ただ西洋のナチュラリズムとは違う方に向かったようですが。
自然主義の文学といえば、島崎藤村の「破戒」と田山花袋の「蒲団」が代表的なもので、僕は暫く前に花袋の”いい”本を幾つか手に入れていたので、「蒲団」を読んでみることにしました。
この蒲団というのは女弟子に恋する所帯持ちの作家の話なのですが、これがまたうんざりするような話。
嫌な話だなと思いつつ最後まで読むと、これまた「よい小説だった」と思ったので、僕もいよいよ新たな病に罹っているのかもしれません。
花袋で苦い思いをしたあとまた漱石を挟もうというので、「草枕」を読み始め、さらに今は「三四郎」もうつらうつらしながら眺めています。
睡眠薬の読書
僕はさあ寝ようというとき、読書燈をつけて薄明るいなか本を開きます。
それが今は三四郎なわけですが、これが小難しい本だったり、外国語の本だったりすると効果覿面ですぐ眠くなります。
前に妹が寝るまでに時間がかかるというので、講談社現代新書の「フランス語のすすめ」という本を読ませてみたのですが、次の朝聞いてみると「すぐ寝た」ということでした。
僕もドイツ語なんかが一番効き目がありますが、三四郎でも5分も経たないうちになにがなんだかよくわからなくなって、すぐに眠れます。
これが文字をみると頭が冴えてしょうがないというなら才気煥発の感がありますが、僕はどうも駄目みたいですね。
それでも多少の読書にはなります。
妹も「こうやって読書の習慣をつくればいいのか」といっていましたから、読書の習慣をつけたい人はまず睡眠読書を試してみるのがいいかもしれません。
漱石の面白さ
上に書いたとおり僕は本を読むのにいちいちうんざりするのですが、漱石は別で、自然と読みたい気持ちになってきます。
そうそう、この記事の本題を忘れるところでしたが、そういう自分が読みたいものと読みたくないけれど読むべき本を交互に読むというが、読書術のひとつとしていいのではないかという話。
人によって好きな音楽があるように、小説なんかも自分に合うものがあるのでしょうが、僕の場合漱石の書くことはよくわかるし、調子がよいし、実に頭によい気がする。
仮名遣いの誤りなんかが若干気になりますが、日本語の手本にもいい。
ただ三四郎以降はやたらに深刻な話が多くなりましょうから、うん、どうしようかというところです。
おそらく草枕はこれから一生の宝になるだろうと思います。あれは唯一無二のものです。
僕はよく人から人として疑いをかけられますが、僕の感じ方というのが草枕の前半山登りのところで非常に言い当てられている。
次からは疑問の答えに「草枕を読んでください」といいたいくらいのものです。
あとがき
去年の秋頃よく読書の記事を書いていましたが、僕の読書はとにかく記事にしづらいので定期的に書こうと思っていたのが、計画倒れになってしまいました。
まあそれでも書いた記事をみていると、直接こそ扱わざれ、工夫してその時々の読書を記事に活かしているなあという感じがします。
もう少し楽に書ければよいのですが。
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