はい、じゃあバレンタインまでに返してくださいと、ほんの少しのセクハラをこめて司書のおばさんが言ったから、いつまでに本を返せばよいのかはっきり覚えていた。
僕は借りていた本を返して、科学方面の本がおいてある棚へ向かう。
この最寄の図書館は小さいものだからなんでもあるというわけではないけれど、宇宙関連の棚を探すといくつか基本的なことを扱うものがみつかった。
そのなかから相応しそうなものを選んだとき、ふと先日買った本のことを思い出した。
要らない本から始まる話
僕が買った例の”要らない本”の中に、ベルナールの「回想のセザンヌ」があった。
僕は誰かが誰かについて書いたものは大体くだらないと思っていることもあり、渋っていたのだけれど、先生は大画家について書いたものなどは結構面白いものですよというから、買ってしまった。
まあ確かに、僕が思う”誰かが誰かについて書いたもの”と、この本を同じところに並べるのは間違いだろう。
買ったのはよいとして、僕はセザンヌについてよく知らない。
よく知らない人について書いたものを読むのはあまり面白いものではない。
というわけで僕はセザンヌの画集を探した。
小さい美術書の棚に、ふたつほどセザンヌの画集があった。
どちらも大判でちょっと持ち帰りにくいのだけれど、ひとつ選んで借りた。
喫茶店で
バスに乗って街へ行き、用事を済ませてから喫茶店へ向かった。
喫茶店へつくと、めずらしく先生が先に座っている。店は繁盛している。
見ると机の上に原稿用紙が置いてあった。
なにを書いているのか僕が聴くとお弔い文だということを教えてくれた。
亡くなったのは先生と親しくしていた画家で、先生がフランス語の手ほどきをしたあとフランスへ絵を学びに行ったというばあさまである。
僕はそのばあさまとは結局一度も会わず終いだったけれども存命の時から話はよく聞いていた。
その弔辞は先生が後見人をしている美術団体の会報か何かに載るらしい。
それを今日中に届けなければならないようで、店のFAXを借りて送るという。
FAXの使い方はわかりますか、と聞くから、
さあ前はよく使いましたけど、携帯電話を持つようになってからは使っていないし、機種が違えば使い方は違うし、どうだか・・・
とか僕がごにょごにょいっている間、先生はかばんをごそごそ漁っている。
FAX番号を書いた紙が見つからないらしい。
先生は送り先のFさんに電話をかけた。
Fさんというのは前に僕が展覧会の搬入搬出を手伝って、さらに奇妙な踊りを見せられた話で出てきたあの人である。
先生はFさんに番号を聞くつもりで書けたのだが、偶然近くにいるというので、Fさんが直接とりにくることになった。
Fさんを待っている間にTままさんがやってきて、
どうも、お久しぶりなどといいながら、席についた。
Tままさんが来る前に先生から聞いた話では、Tままさんはバレンタインデーのためにチョコレートを郵送してくれたらしい。
先生のところと、それから僕のところにも。
Fさんがやってきて先生と絵描きの醜悪さについて話している間、勉強を邪魔して悪いねと気遣ったFさんにおかまいなくと言った僕はTままさんに話しかけた。
バレンタインのチョコレートを送ってくれたそうで・・・
というとTままさんはいつもどおりの勢いのよさで、
なんでもない菓子屋のチョコレートだから。今年はねえ9人に送ったの。
と話始める。Tままさんはボーイフレンドが多い。
死ぬまで送ってくれっていわれている人がいてねえ、その人和歌山の田舎に住んでいてね。段々畑にみかんの木がたくさんあるんだけど、もう年だから収穫もしないで、それが鳥の餌になるんだって、本当にもったいない。今いよかんが時期でしょ?送料は払うから、ダンボールにつめて送ってくれっていうんだけど、摘むのもめんどうだっていうの。あと栗の木もあるんだけどね・・・
Tままさんの話には脈略がない。僕らはみかんの話で大盛り上がりした。
そのじいさんのところでなったみかんは僕も貰って食べたことがある。
はっさくといよかんも。ほったらかしで勝手になったみかんは、皮が硬くて、傷がついていて、力強い味がした。
飯屋へ
お話中悪いんだけど、といってFさんが話しかけてきた。
今度よかったら家へ遊びにおいで、電車もバスもないところだけど、駅まで迎えにいくから。
はい、是非お邪魔します。
とは言ったけれど、人と交流するのが嫌いな僕は複雑な気持ちでもあった。
僕よりも、博物好きなTままさんが食ついていた。
Fさんはある化石を題材に版画を作っているのだが、自宅に本物の化石が博物館のように並んでいるのだという。
Tままさんがよく行く某大学博物館でFさんの版画を集めて大展覧会をやったこともあるらしく、余計に興味がわいたようだ。
それでもFさんは、ただ化石をかいているわけではない、といっていた。
そのうちにFさんが帰った。
三人でいきましょ
などといっているところをみると、Tままさんは本当に行きたがっているようだった。
20日から娘さんが旅行に行くので暇らしい。
Tままさんはこれからどうするんですか
と僕が今日の予定をきくと、
今日はね、娘に家を追い出されてここにきたんだけどね、晩御飯はつくりに帰ろうと思ってるの。二人はどうせそばでしょ?そば以外なら行ってもいいんだけどね。私そばは当分いいわ。
という。とんままさんはそばがあまり好きでない。前に僕らと大盛りそばを食べにいったことがあったのだが、その日夢にそばがでてきたという。
僕は、
そうですね、先生に相談してみてください。もちろん何もなければそば屋に行きますけど、僕は別のものでもいいです。
といった。先生に聞いてみると案の定、なんでも構わない、といっていた。
僕らが三人で行くとすれば、ほとんどがカレー屋である。
今日も近場のカレー屋を三人で言い出しあって、最近出来たばかりのカレー屋に行ってみることにした。
セザンヌ
カレー屋への道中、僕はセザンヌのことを話した。
「回想のセザンヌ」を手に入れたが、セザンヌのことをよく知らないから、画集を借りて云々。
するとTままさんは、
セザンヌはねえ、つまらないよ。ピカソなんかの土台をつくったっていうところは認めるけど、つまらない。
といった。それに先生が、
Tままさんはセザンヌがつまらないんですか。私は面白いと思うけど。
といった。
普通趣味の話をすると、喧嘩にならなくとも、なんとなく陰気な雰囲気になるものだが、Tままさんと先生の話にはそういうところが微塵もないのが面白かった。
僕のまわりにもいままで自分を肯定したい気持ちが、ちょっと強すぎる人たちがいた。
僕もいくらかはそうである。
先生も、Tままさんも僕が想像もできないほど多くの人生経験を持っているし、たくさん本も読んでいる。
好き嫌いは自分だけのことであれば簡単なことだけれど、他人とそれを、なんというか表明しあうことになると、とたんに難しいことになる。少なくとも僕にはかなり難しい。
僕はなんとなく金子みすずの有名なあの詩を思い出して、自分のことでも、他人のことでも、何かが好きとか、あるいは嫌いとかいう気持ちをもっとうまく扱えればよいなあと思った。
古本関所
カレー屋への途中、古本市がひらかれていた。
それをなんとか30分ほどで何も買わずやりすごして安心していた僕に先生が、
いま向うにももう一つ関所のように古本市がある。
と恐ろしいことがいった。古本市はまさに関所である。
いつも古本市をみて歩いていると、古本市にはいくつかのグループがあることがわかる。
次の古本市をひらいているグループは高めの値段設定で、僕はいままでほとんど買ったことがなかった。
今度も何もないかなと思い、そろそろ行きましょうと声をかけたところで先生が、
そういえばこの前きた時ここに”ジゲン”があった
といって探し始めた。
”ジゲン”ってなんだろうと思って取り出した本をみると、それは簡野道明の「字源」だった。
これは僕の探していた漢語辞典のうちの一つである。それも戦前の古いものだ。
先生はとんでもないものをみつけてくれた。そこそこ安い値段だし、みつけたら買わなければならない。
会計に持っていったら、店員がぎょっとしていた。
僕は見た目だけは普通の若者である。
一つ目の関所でもシュトルムの短編集など数冊買っていたTままさんは二つ目でもちょっと高い画集を値切って買っていた。
僕も久々に高い古本を買って、みごとに関銭を落とした。
カレーを食べ終わったあと、Tままさんがコーヒーをごちそうしてくれるというので三人でコーヒーを飲んで、それから電車にのって帰った。
駅から暗い夜道をとぼとぼ歩いて帰って郵便受けをみると、厚ぼったい封筒が入っていた。
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