前回の『漱石の「草枕」を読む』を読むからやや時間がたち、まあその間に読書に関する記事をふたつほど書きましたが、今回はどこかで書いたとおり二葉亭四迷の「浮雲」について書きます。
二葉亭四迷というと、学校でならったときにその名前が「くたばつてしまへ」などという言葉からきていると覚えて、それだけが妙に頭に残っていましたね。
二葉亭四迷作「浮雲」を読む
二葉亭四迷は本名長谷川辰之助といって元治元年(1864)生れ、明治42年(1909)に亡くなります。
東京外国語学校露語科で文学に興味をもったようです。
坪内逍遥の「小説神髄」に影響を受けて、「小説総論」という評論を書きましたが、中身は写実主義の理論についてです。
「浮雲」はその具体化として書かれたようです。
写実主義
さて写実主義とはなにか。
広辞苑によりますと
【写実主義】(realism)
現実を美化あるいは理想化せず、あるがままに描写しようとする文学・芸術上の立場。十九世紀中葉、ロマン主義に対立して興った思潮で、バルザック・スタンダール・フローベール・ディケンズらの小節、クールベ、ドーミエらの絵画などに代表され、文学では自然主義、絵画では印象主義にとってかわられた。リアリズム。
とあります。
うーん、たしかに「浮雲」も「現実を美化あるいは理想化せず、あるがままに描写し」たものです。
正宗白鳥が浮雲を評して、こういっています。
「長谷川二葉亭の『浮雲』を通讀した。第一篇を讀進むと、これが明治二十年頃に現はれたのかと驚かれた。これは單なる靑春詠歎の書ではない。悠々たる人生がそこに現はれてゐる。當時の社會相が、多少の稚氣があつても、そこに活寫されてゐる。」
このように浮雲はまず写実主義の小説として成功し、価値を認められたようですね。
言文一致
そしてなにより浮雲といえば、明治文学において初めて「言文一致体」を試みたことで有名です。
言文一致というのは文(書く言葉)の言葉づかいを話し言葉に一致させることをいって、つまり文語をやめて口語でものを書くようにしたということです。
では浮雲の文体がどのようなものか、冒頭をちょっとみてみましょう。
第一囘 アヽラ怪しの人の擧動(ふるまひ)
千早振る神無月も最早跡二日の餘波(なごり)となッた廿八日の午後三時頃に、神田見附の内より、塗渡(とわた)る蟻、散る蜘蛛の子うよ〱(うよ)ぞよ〱沸出でゝ來るのは、孰れも顋(おとがひ)を氣にし給ふ方々。しかし熟々(つらつら)見て篤と點檢すると、是れにも種々種類のあるもので、まづ髭から書立てれば、口髭、頬髭、顋の髭、暴(やけ)に興起(おや)した拿破崙(なぽれをん)髭に、狆の口めいた比斯馬克(びすまるく)髭、そのほか矮鶏(ちやぼ)髭、狢(むじな)髭、ありやなしやの幻の髭、濃くも淡くもいろ〱に生分る。(中略)
途上人影(ひとけ)の稀れに成つた頃、同じ見附の内より両人(ふたり)の少年(わかもの)が話しながら出て參つた。
・・・・・
まあ冒頭は気合の入った情景描写なんでどうしても難しい感じになりますが、全体にはやはり読みにくいということはありません。
ただ口語だからといって、今の口語と同じかと言うとそれはかなり違いますね。
あと以下参考です。
ナポレオン3世
ビスマルク
狆
矮鶏
狢(ニホンアナグマ)
アナグマってかわいいんですね。くさそうですけど。
浮雲のあらすじ
まあというわけで冒頭ふたりの若者が登場するのですが、
そのうちのひとりが主人公、内海文三です。
学があり誠実で真面目だが、世俗の知恵に乏しい。
そしてもうひとりがこれまた重要な人物、本田昇。
お喋りで品がないが、上司にすりよるのがすこぶる上手く世渡りがうまい。
文三ははやくに父を亡くし、伯父をあてにして、田舎に母をひとりのこし上京してきます。
伯父の家には、その妻のお政、娘のお勢、下女の鍋がいて、この五人が主に話の中心にいます。
学を修めたあとうまく官員になった文三はしばらく勤めて蓄えもでき、田舎から母を呼んで、たがいに想いをよせるお勢と家庭をもとうと思っていました。
が、その矢先勤め先を免職になってしまいます。
話は文三が免職になってからが主になっています。
話の見どころ
外面は写実主義で明治の風俗と青年男女の様子を細かにあらわしていて、
内容のうち文三とお勢の恋というのがかなりの分量をしめます。
実際僕は読んでいて後半にかけて劇的な、読者を興奮させる要素を強く感じました。
しかし、まあその写実主義を形式に若者文三の生活と恋を第一主題とするなら、
第二主題は「実社会において成功するのは誠実者か卑怯者か」といったところです。
いや、このところは実際はっきりしているのでもっと直截的にこういってもいいでしょう。
「実社会において成功するには卑怯でなければならぬのか」
昇に頼んで上司に卑しく媚びれば復職して母に孝行しお勢を嫁にしてなにもかもうまくやれるかもしれない。しかしそんな卑賤な真似だけは絶対にできない、と高潔な文三は苦しみます。
多くの人が生きていて実際に突き当たるような問題に二葉亭四迷はとりくんでいます。
浮雲は第三篇まであって、その最後の最後で未完に終わりその結論はでていません。
ロシア文学に影響されたようですが、まだ若い長谷川二葉亭にとっては問題が難しすぎたのかもしれません。
結局 読者が自分自身に向かって問うていかなければならないのですが、まあこの問題については本編を参照していただくのが一番でしょうからここではこのくらいにしておきます。
僕が”人”について思うこと
ついでにお邪魔ながら浮雲を読んで僕が改めて思ったを少しだけ書きます。
世の中には”悪人”というのがいて、人はよくその”悪人”の話をします。
僕はよく人が悪人について話しているのを聴きます。
たとえば、喫茶店で隣に座っている人。
ある悪人がどんなに悪い人間で、どんな悪いことをしたか、そしてそれに対して自分はどんなに誠実で、その悪人に寛容に接しているか、そしてその誠実な自分に対して悪人がまたどんなひどい仕打ちをしたか・・・
そういう話を聴いていると、ほう、じゃあこの人は高潔の人で、その話題になっている人というのはとんでもない悪人らしい・・・と思われそうなところですが、
よく考えてみると、あらゆる人が常に誰かを対象に自分より劣っているという話をし続けているわけですから、それが本当ならそこら中悪人だらけになります。
しかし実際にいるのは自分の誠実さと悪人の悪行を話す人ばかり・・・
これを僕は常日頃不思議だなあと思っています。
浮雲を読んでいてこのことを考えたということは、まあそういう要素もあったというわけです。
ただ僕はここに書いたことで、悪人のことを話す人こそ悪人なのだとかそういうことをいっているのではありません。事態はどうやらもっと複雑なようです・・・
浮雲は面白い
浮雲は素直に面白い小説でありました。
ただ、やっぱり白鳥がいったように「多少の稚氣」が感じられなくもない、というのが僕の感想です。(そんなこと言える立場ではありませんが)
なにか完全性のようなものを求めて読むものではありません。
しかし、やはりその文体的興味と、当時の風俗を鋭く表した写実、そして倫理的な問題提起に読みどころがあるとあると思います。
最後とぎれたところで、自分ならこう進める、終わらせるということを考えてみると非常な勉強になるようです。
読んで損はないと思うので、興味のある人は読んでみてくだい。
おわりに&次回
浮雲は三篇あって、項数も文庫で二百位なんでやや長いんですけれど、そこまで苦労せずに読めましたね。
知らない言葉もあまりありませんでした。というか語法が独特なので、知っている必要がないというかなんというか。とにかく語彙を増やすとかそういう目的には向いていませんね。
ことばを学ぶならやはり鷗外などがよいでしょうか。
次は何を読むか・・・
逍遥の「小説神髄」でもいいですが記事にしづらそうですね。(レポート的に書くのは苦労しそう)
言文一致体をもうちょっとみてみるなら尾崎紅葉か、
もしくはロシアのものを何かよんでみるか。
読書の秋ですからみなさんも是非大いに本を読みましょう。ではこのへんで。
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