実際本を読むということは、紙面の文にあたるということだけでなく、その紙面を目の前にもってくる、もってくるためにどこかで調達してくる、調達する本を選ぶなど、普段考えるより複雑なことだといえます。
その一助となるように以前この記事を書きました。
今回は、まあなんてことはないのですが、読む本を選ぶとき参考になりそうなことを、僕が普段やっているのを基にして紹介します。
本の読み方のひとつの提案
僕はとにかく、ものとものとの結びつき、人と人との関係がどうも気になるんで、普段本を読むときそれをもとにして読んでいるわけです。
1、ある作者に影響を与えた作者や作品をたどる
小説でも歌集でも詩集でも、それ自体は外界からほとんど遮断された独自の世界を持っていますから、これはこの人の何ていう作品に影響を受けています、なんてことは書かれていませんが、そういうものは必ずあるわけです。
巻末の解説なんかに作者の生立ちや作品について書いてあるものがありますが、そういう文学者や関係者の話というのは興味深いもので、そういうものを手掛かりにある作者と作者の繋がりを見つけ出すというのは面白いことです。
作品に対する評論
というわけでまずその作品の評論を読むことがそのひとつです。
例えば『一葉の「たけくらべ」を読む』で樋口一葉を紹介しましたが、その一葉について「五重塔」の作者幸田露伴が文章を残しています。
そのうちのひとつ「樋口一葉」はこんな書き出しです。
明治文學に於て獨自の一境地を有して居る一葉女史の上に就いて何かと感想を記して呉れとの改造社の依賴を受けたが、大抵の事は自分も旣に記し盡して居り、他の人〻もいろ〱さま〲の點から論談してゐるから、餘り新しい事實や觀察を提供することの出來ないのは自然の勢いである。
・・・
これは昭和二年「改造」に載せられた文章ですが、こういうものはもうこれだけで面白いものです。
跡をたどる
しばらく前、鳳(與謝野)晶子の「みだれ髪」を読みましたが、晶子は昭和三年に自選詩集を出す折、自分が影響を受けた人に
- 島崎藤村
- 薄田泣菫
- 正岡子規
をあげています。
『藤村の「若菜集」を読む』で藤村については少し書きましたが、僕がこの時藤村を読んだのはこのみだれ髪との繋がりをみたいからでした。
まあそんなわけでみだれ髪を読んだあとに若菜集なんかよむと格別面白いわけです。
合わせて泣菫は詩集「白羊宮」などよいのではないでしょうか。
例にひとつあげます。
ああ大和にしあらましかば
ああ、大和にしあらましかば、
いま神無月、
うは葉散り透く神無備(かみなび)の森の小路を
あかつき露に髮ぬれて、往きこそかよへ
斑鳩へ。平郡(へぐり)のおほ野高草の
黃金の海とゆらゆる日、
塵居(ちりゐ)の窓のうは白(じら)み日ざしの淡(あは)に、
いにし代の珍(うづ)の御經(みきやう)の黃金文字、
百濟緖琴(くだらをごと)に、齋(いは)ひ瓮(べ)に、彩畫(だみゑ)の壁に
見ぞ洸(ほ)くる柱がくれのたたずまひ。
常花(とこはな)かざす藝の宮、齋殿(いみどの)深く
焚きくゆる香ぞ、さながらの八鹽折(やしほをり)
美酒(うまき)の甕(みか)のまよはしに
さこそは醉はめ。
(以下続)
美しく立派なものですが、まあ語彙が凄いですね笑
白羊宮は今どうも出版されていないようですね、
僕は古い新潮文庫で読みましたが。
他に晶子といえば鐡幹ですから、もちろん鐡幹を読むのも考えられます。
こうしていくと「みだれ髪」ひとつからいくつも道が開けていくわけです。
他に例えば、鷗外が漱石の「三四郎」に影響をうけて「青年」を書いたとか面白そうな繋がりは無数にあります。
2、作品の中の作品をたどる
これまでは作品に直接あらわれない、題にあるとおり”隠れた“つながりを辿ることをかきましたが、今度はまあ上の意味での繋がりではないですが、文中に直接でてくる作品を続けてみていくというのもひとつの見方です。
この前『漱石の「草枕」を読む』で紹介した草枕の中には記事にも書いたとおりたくさんの芸術家(の名前)が登場します。草枕の話に沿ってそれらの作品にあたっていくのも面白そうです。
小説の中に他の作品がでてくることはあまりないかもしれませんが、随筆や評論にはよくでてくるものです。
乾山
そういう繋がりをたくさんみてはきましたが、そのうち僕の印象に残っているのは、
青柳瑞穂さんの著作のなかに(尾形)乾山が出てきて、乾山に関する本を読んだことでしょうか。
僕はもともとやきもののことはあまり知らなかったのですが(まあ今も知らない)、それを機に興味をもってみるようになりました。
やきものの展覧会なんかはもちろんですが、やきもの関係の書籍を求めたり、僕の中にちょっとした”やきものブーム”ができました。
青柳さんと乾山は僕が日本語と日本文化に目をむけるきっかけになりました。
乾山のことは去年琳派が流行っていましたから知っておられる方もありましょうが、僕はまだいまいち知らないので、今度は光琳をみようか、とも思っているのですが、なんというか”機会”に恵まれないので進展はありません。
僕は自分から求めるよりは相手のほうから自然と入ってきたときのほうが何かと面白いと思っているので、まあそのうち現れるだろうと、”光琳の何か”を静かに待っているわけです。
音楽もそうきくと面白い
この記事は読書の方法について提案をしたわけですが、音楽も、というかなんでもそうかもしれませんが、繋がりを辿ると面白かったりします。
『バッハの組曲、無伴奏の源流を求める~バロック組曲の起源(またイギリス活躍)~ 』
前にこの記事あたりで、バッハの組曲、無伴奏曲と繋がりのある音楽をみましたが、
まあこんなに細かく歴史をさかのぼるのはちょっと大変ですが、こういう風にみていくと音楽もまた面白くなるものと思います。
もっと単純に、モーツァルトとバッハの関係などみると面白いでしょう。
たとえば、モーツァルトがバッハの音楽を知って作った曲があります。
バッハの平均律のフーガに前奏曲をつけたものです。
そのうち第一番
話に全然関係ありませんが、このフーガは僕が特に好きなものです笑
モーツァルトがバッハの曲を編曲したというだけで、面白いですが、
まあこういう機会があって、後期に見られるフーガなどが書かれたりしたわけです。
おわりに
今回は本のひとつの読み方として、その本や作者に影響を与えたものをたどると面白いということでした。
書いたことは全く大雑把なものですが、もっと細かなところで共通な部分を見つけたり、とにかく”繋がり”を見ていくのは読み方としてありえます。
”話の筋”はおよそ作者本人からでますが、表現は学ぶものです。
ところで次は近代日本の口語を形づくったものとして、二葉亭四迷の「浮雲」を読もうかと思っています。
言文一致の先駆で、口語で書かれていますから、文語に慣れない人も読めると思います。
暇な人がいたら読んでみてください。
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