僕は髪を切るのがどうも苦手で、いつも先延ばしにしてしまうのだが、少し前決心して髪を切りに行って来た。
そういうところでは客の入り具合やらなにやらで、例の雨合羽みたいなのをかぶせられたまま待たされることがある。
僕は鏡の前に用意されるような雑誌はほとんど読まないから、待たされるときのために何か本を一冊持つようにしている。
僕は用心深いのだった。
ダイヤモンドが炭と同じものからできているという不思議と似たことをいいたいわけ
その日僕が持っていたのは學燈社という出版社の(昭和30年頃の)漢文の教科書だった。
古本まみれの僕としてはごく普通のつもりだったのだが、その時僕の髪をドライヤーでやたらにわしゃわしゃやっているお兄さんにはめずらしかったらしい。
それ、なんかすごいものもってますね。
と話しかけて来た。その人の話によると天地小口のヤケヨゴレと僕がカバーにつけていた京都かどこかの仏像展のポスターが目についたらしい。
失敗した
と僕はとっさに思った。
古い本
お兄さんは古い本に馴染みがないらしく、とにかく僕の持っている本に興味があるらしかった。
なんか古い本ってよくわかんない文字がありますよね。ぬみたいな
などとわけのわからないことをいっているが、おそらく”ゐ”のことを言っているのであろう。僕は一応わ行について説明した。
そして、お兄さんはこういうのである。
古い本に自分でカバーをかけて、なにかこだわりがあるみたいで、かっこいいですね。
まあ仕事で話さなければならないからとにかく思いつくまま話しているのであろうが、どうも聞いていると素直に思った感想をいっているように聞こえる。
僕のもっている古い本にそういう反応をするというのはちょっと意外だった。
もちろん全員がそういう感想をもつわけではないだろうし、なにそれきったねーと思う人も絶対にいる。でもそれをかっこいいなどと言い出す人がいるのも確かなのである。
これがもっと時間がたったものだと、きっとほとんど全員の人が、たとえ書物の価値を知らなくても、何か本能的にその古い本に対して畏敬の念のようなものを抱くに違いない。
無価値が価値になる
少し古いだけだとむしろ価値のなくなるものが、ある一定の時間を有するとたちまち価値をふくれあがらせて、それがものであれば、ヴィンティージとかアンティークなどと呼ばれるようになったりするのである。
古本の場合はいつまでたってもアンティークにはなれないが、とにかく貴重になっていくのは間違いない。
塵がつもって山になる
時代遅れも行きすぎると時代遅れではなくなるわけである。
これはきっと”時間”だけの話ではない。
一見全く無駄なことが、一定の量を超えたところでたちまち姿を変えて、それまで馬鹿にしてみていた人たちが目の色をかえて見張ることになる。
それだけではちょっとダサいファッションも、いきすぎもいきすぎ、限界を遥かにこえていきすぎると、なぜかオシャレだといわれるようになるのはよくみられる不思議である。
僕の頭に日々蓄積されていく今はなんの役にも立たない、時代遅れの、使い古された、しおれた知識や物語も、きっとこれがたくさん集まって、時間がたって熟したら、何かものすごい力をもったものに変わるだろうと思う。
つもらないと山にならない
ただその一定量というのが並々ならぬ量らしい。
ものがアンティークにかわるには50年程時間がたつ必要がある。
僕がもっていたのも昭和三十年のもので、つまり60年程前のものだからなにか計らずも合致するところがある。
塵も積もれば山となる、が、つもらなければ塵のまま。なのである。
ちょっと古いくらいでは、アンティークどころかゴミに近く、
僕もまた今はゴミのような人間なわけである。
コメントを残す