夏もいよいよ盛りになって、暑い日が続いている。
正午近くなって、僕はリュックに本をたくさんつめて、例の喫茶店に向かう。
自転車に乗ると真上から射す日が少しあついが、仕方がない、
急ぎでもないからゆっくりこいで行く。
自転車で行くときは、途中にある古本屋の外につけられた棚を覗いていく。
僕の求めるものは、今やほとんど誰も読まないし買われないものだから、たまにみるといいものが見つかるのである。
夏の日と読書感想文
みると新顔がある。
いいものがいくつかあったから、どうしようかと悩んでいて、ふと棚の上のほうをみると面白い物があった。
これである。
これは20世紀ドイツの作家ノサックのものでどうやら単行本としては日本で初めて出版されたものらしい。
ノサックなどを知らないという人が多いかも知れない。
実は僕もよく知らない。
関心と古本
ではなぜ“面白い物”なのか。
実は一週間程前からちょうどノサックに注目していたのだ。
古本を探していると、欲しいと思い始めてすぐ向こうから飛び込んでくるように手に入ることがある。
というのは説明するならば、一見怪しい話かもしれないが、
僕がノサックに注目していたからあの本は棚にあったのであって、
もし僕がノサックに関心が無かったら、この本はあの棚にありはしない、
ということなのである。
まあ、これは古本に限ったことではなくて、例えば話の話題になっていた人物とばったり出くわすとかなんとかいろんな場面で似たようなことは起こる。
だからみなさんがもし欲しい本を手に入れたいのだとしたら、”あの”本が欲しい、と思わなければだめである。
a bookからthe bookにしなければならない。
手紙
なぜノサックに注目していたかということにはちょっと説明がいる。
この説明が一ト記事反古にしたくらい難しい。
以下その記事から引用
ある日の昼下がり僕は先生と例の喫茶店で待ち合わせていた。
いつもは早めにいって、その僅かの時間を大いに楽しむのだが、その日は用事があって少し遅れてしまった。
つくと先生、机の上に本を出している。
中央公論社の「世界の文学」中の「ドイツ名作集
」である。
この本、実は(この日の)前の週に一緒に行った古本屋で買ったものである。
何故買ったというに、先生が例のKimuraさんから受取った手紙にこの本に掲載されている作品、「岸辺で」の著者”ノサック”に対する言及があったからである。
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ノサック
僕が席につくと先生はKimuraさんから”更に”届いた手紙を見せてくれた。
中には最近ノサックを読んでいて、それが思ったより面白いとあり、
特に「ルキウス・ユーリヌスの遺書」という作品について書いてある。
これは古代ローマの話で、妻がキリスト教に回心したことをきっかけに、ローマの神々への信仰と妻の回心という個人的苦悩の間でルキウス・ユーリヌスが自殺してしまうというもの。(僕は読んでいない)
キリスト教の公認が313年だから、おそらくその頃を描いたものだろうが、どうして20世紀のドイツの作家がそんなものを書くのか、ちょっと興味深い。
Kimuraさんは以前にも一度読んだことがあるらしく、強く印象に残っていた箇所があったらしい。
それはルキウス・ユーリヌスの妻が彼に向って、「私たち・・・」と話しかける場面なのだが、その”私たち”というのが、彼ら夫婦ではなく、キリスト教徒の仲間をさしているのだという。
そして、その短い手紙は最後に数行付け足したように終るのだが、それをここに書く前に先ず昔の話をしなければならない。
回想シーンは省略します。
日常のささいなことも意外と他の出来事と複雑に絡み合っているから、それをそのまま書こうとするとなかなか難しいものである。
これを逐一説明していると相当長くなってしまう。(何重の過去の話になるか知れぬ)
昔の話というのは
僕がKimuraさんとペンフレンドになるまでのいきさつなのであるが、
とにかく(僕はこのとにかくというのが便利で好き)、僕は例にもれず”梨のつぶて”だったわけ。(知らない人もいるかもしれないから一応説明すると「梨のつぶて」というのは、便りのないこと)
このとにかくで省いた間に、僕がこの記事→『梨のつぶて』で粗く書いたように手紙を書き始めたこととか、 Kimuraさんの著書の読者だったとか、ちょっとしたことがあるのだが、今はとにかく省略する。
Kimuraさんの手紙は本当に面白い物で、その著作というのも、実は書簡集で、手紙があんまり面白いんで出版しようということになったらしい。
僕は毎回返信を楽しみにして、よく書いていたのだけれど、ここ数カ月なにか書く気になれなくて書かずにいた。
Kimuraさんはそれを別に催促するわけでもなかったのだが、その”最後の数行”によって書かざるを得なくなったのである。
最後の数行
その最後の数行というのはこういうものだった。
そのきつねさんって人、こういうのは読まないのかしら?
ちゃんとした物語ですけど!
僕はこれをじっと眺めて、
これ、どういうことでしょう。
と先生にきいた。
先生曰く、
売られた喧嘩は買わねばなるまい、というのでしょう。
読書感想文
先生がドイツ名作集をわざわざもってきたのはこういうわけであった。
僕はこの軽快で巧妙な二行によって、
- ノサックを読む
- 手紙を返す
- 手紙の中にノサックの話題を盛り込む
というしごとを課されたのである。
まさかこんなことで読書感想文を書くことになるとは・・・
僕のような愚昧な読者は本の感想などといっても、
面白かった
とか
難しかった
とか思うのがせいぜいのところで、それ以上を作文せよなどといわれてもちょっと困るのだが、まあ仕方がない。成り行きに任せるのが一番上手く行く・・・
それで先生にドイツ名作集を借りて、早速その日のうちに”岸辺で”を読んでみた。
・・・うむむ
僕の読んだことのない、なんともいえない類の作品である。
特殊な環境で育った自分と姉のことを宿で働く女性に話してきかせるというのが話の殆どを占める。主人公は家の近くにある川と崩れた橋、そしてこちらとあちらの”岸辺”に執着している。
一応何枚か手紙を書いてはみたけれどどうも難しい。
もう何作品か読んでみなければなるまい。
・・・というところで、今回の話である。
anorak
僕の買ってきたノサックや、土屋文明の万葉の本を見て、
徐にこういった。
山を登るときに、ヤッケというものがあるでしょう。
アノラックというのは知っていますか。
僕は知らなかった。
先生は英和辞典でアノラックという項目を引いて見せてくれた。
アノラックというのは毛皮でできた帽子のついた上着で、防雨風用。
元々イヌイットのものらしい。
そしてこういうのだった。
きつね君ももっているホーンビーのあの英英辞典あるでしょう。
あれでアノラックを引くとね、そういう意味以外に、
何か誰もやらないようなつまらないことをしこしこやっている人
をさすらしいんです。
君はアノラックですね。
とにかく、ノサックを読みます。
僕は普段ノサックのような作家は読まないのだが、こういう機会は逃すものじゃないから、とにかく読んで手紙を書こうと思う。
こういう意外なところで、思わぬ発見があるものである。
今回買ったノサックの帯の裏表紙側にちょっと面白い宣伝文句があった。
ひそかな出会いへの期待 曾野 綾子
文学というものは不思議なもので、その人その人によって、自分の心にもっともぴったりと来る作品との出会いがある筈である。 昔から名作として評価され尽くして来たものは大きな胸とがっしりした腕をもった男が、同時に何人もの家族をその胸に抱き寄せる図のように たくさんの人にその宿命的な出会いを感じさせてくれる可能性がある。 しかし、私の場合は、本当に心に深くつきささるように残っているのは、案外な作品なのだ。 この新しい文学全集の楽しみは、まさにそのひそかな思いがけぬ出会いがあるのではないかという期待に尽きるといってもいいだろう。
ノサックの作品はそんなに多く出版されていないだろうが、岩波などから今もでているようだから、興味を持った人は是非。
どこで出くわすにせよ、関心を持つ機会というのは逃すともったいない。
そういう機会をこのブログが作られるとしたら、ちょっと面白いと最近思う。
そしてもちろん、読んだ人は感想文を僕のところに送らなければならない。
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