今週のお題「わたしの本棚」
古本には前の持ち主の形跡が残ることがある。
もちろん古本は普通、新品に近ければ近いほど価値があるのだが、
使い古された本にもそれはそれで面白いところがある。
古本の楽しみ
古本の楽しみ1 線引き
古本にあるもっともわかりやすい”痕”は線引きである。
読んでいて面白いとか、重要だとか思った所に線を引くわけである。
古本にある線引きは引く意味のなく、なんでこんなところに線を引く必要があるのか、とおもってしまうようなものがほとんどである。
ひとによって重要なところが違うということもあるが、それ以前の問題のものが多いというわけ。
例えば、ちょっと前に発見して買った「ムーミンパパ海へいく」の文庫版は新しく綺麗なものだったが、なんとほとんどすべてのページのほとんどすべての行に線が引いてあった。
あまりに鬱陶しかったから、大部分消してしまったが、
この馬鹿ばかしさがみられなくなるのがなんとなく惜しくて、解説のページだけ線を残しておいた。
これが300弱あるページのほとんどすべてにわたるわけである。
それに線引きの種類は
- 直線(定規を使っている)
- 波線
- 中カッコ({←こういうの)
- 二重丸◎
があり、その他に書きこみが多々あった。
ここまでくると、本を読むために線を引いているのか、線を引くために本を読んでいるのか、とにかく相当の根性を持っていないとやりおおせない大事である。
巻末には2012年6月12日(水)の日付が書き込んであるが、おそらく線を引きまくって、その後一度も開かずに売られたに違いない・・・
線引きというのは後から見たときに当該個所を発見しやすくするための工夫だと思うのだが、結局売ってしまうのなら書かずにおくほうが何かと都合がよいはずである。
ちなみに僕は本をなるべく綺麗に残しておきたいから線引きはしない。
この線引きはくだらないが、ムーミンは面白いので気になる方は是非以下の記事参照。
『キャラクターグッズだけじゃない?日本語と英語で読む原作ムーミンの世界』
古本の楽しみ2 挫折型線引き
線引きというのは、眺めていると線を引いた人の性格やらなにやら色々とわかるのであるが、その中でもっとも明瞭で面白いのがこの”挫折型線引き”である。
よし俺は今日から別人だ。
なんとしてもこの本をやりとげて、〇〇をものにしてやろう。
と意気揚々読み始める人の大部分が同じ結末を迎えるらしい。
これも手元に好例があるからお披露目しよう。
本はこのブログのどこかで一度紹介した多田幸造著「くわしい英米現代文の新研究」↓
この本は「現代英米の文人80数人の文章、134編を選んでこれに詳注、対訳、研究と整理を加えたもの」で、名だたる文人の名文(の一部)を一挙に読めるという面白い本。
こういう英語の教科書の例にもれず、まえがきに英語学習に対する姿勢などについてのお説教があるのだが、僕の本の前の持ち主はまた相当熱心にこのまえがきを読んだらしい。
何か所か線が引いてある。
こういう線引きがなんで引いたのかよくわからない線引きである。
一応書いておくと、高校二年以上大学一年でこれをこなすとなると結構レベルが高い。
ここで前の持ち主は、この一文に大いに納得し、感動し、激励されたに違いない。
どうも線を引いているところをみると、これに取組もうとしている学生というより、学生に英語を教えなければならない先生の目につきそうなところに注目している。
ここに線を引かないと気に入ったものを暗記するとよいということを忘れてしまうのだろうか・・・
いや、確かに重要なことをいってはいるが、線を引く意味があるのかということに関しては甚だ疑問なわけ。はい。
こうみてくるとどうも、英語学習者にありがちだが、実際に英語を勉強することよりどうやったら英語ができるようになるかということに極端に注目しているよう。
そうしてはしがきを相当入念に読みこんで、本文の勉強にとりかかったわけ。
第一文はL.P.Hartley(1895-1972)のThe Go-Betweenからだが、注に線が引いてある。
青ペンでも引いてある。これは慣用だからか。
・・・これでおしまい。
線がここで途絶えている。
まあ、これだけでははっきりとはわからない、
線を引くのをやめたのか、読むのを止めたのか・・・
僕は全部読んだが、相当難しいものもあった。
英語を熱心に勉強している人とか、文学に興味のある人は読んで損はないと思われる。
この本に載っている作家や作品で気になったものを改めて全部読んでみると面白いと思う。僕もいくつか読んだ。
今気になっているのはErnest HemingwayのBig Two-Hearted Riverというもの。
ヘミングウェイは「老人と海」を小学校の時に読んだきりだが、この作品は何か面白そう。
古本の楽しみ3 書き込み
線引きではなく、文字が書きいれられていることもしばしばある。
文中はもちろんだが、巻末に読み終えての感想が書きいれられていることもたまにある。
僕は線引きや書き込みのあるものはあまり好まないので手元にあるものは少ないが、前に↓の記事で紹介したフラクトゥーアなどは面白いもののひとつ。
メモ等がはさまっていることもある。
ヘッセの詩集の最後にこんなものがはさまっていた。
おそらく自作の詩であろう。
推敲の跡がみえる。
どうやらこの人は失恋したようなのである。
面影を「想翳」と書くのはみたことがないが、独自の用法だろうか。
面影などというと僕は芭蕉の
まゆはきを俤にして紅粉の花
という句が思い浮かぶ。
この詩の想翳はこの俤と違って、想などという字がついてはいるが、顔かたちのことをさした用法の様である。
「空は陽射しの行場をとまどわせ」なんていうのも大胆である。
月が散るなんていうのもきいたことがないし、
この人の心境はかなり非常だったようである。
ネオマイゾンのメモ帳がなんとも時代を感じさせる作品である。
古本の楽しみ4 蔵書印と署名
ある本が誰の所蔵か示すために捺したり書いたりするものだが、最近はあまりされないようである。
僕は書き込みは好かないが、蔵書印や署名は好きである。
長い時間と距離を経て、自分の手に渡ってきたという感慨が増して、何ともよいのである。
例えばこの本
1930-June-
22th
とあるからいまから85年程前、昭和五年のサインである。
この本は1924年頃、イギリスで発行されたもので、どういう経緯でこのKenichi Ohto(?)さんに渡ったかはわからないが、2014年に僕の手に入った。
日付等が書いてあると、色々とあったろうによく無事で僕のところにわたってきてくれた、としみじみと思われるのである。
これも人によって違うのであろうが、蔵書印なんかがあると僕は持ち主の愛情やら、本を大切にしようという気持ちが感じられるようで好きなのである。
今は蔵書印を捺す人が少ないようで、これでは後の世代の人がこの喜びを感じられなくなると思った僕は自分でも蔵書印を捺すことにした。
僕は蔵書印は持っていなかったが、中学時代美術の時間で作った隷書体の篆刻があったからそれで代用することにした。
実際の印影。本名なので隠しております。
中学の時につくったものだから、最近はやはりぎこちない感じがして、そのうち作りなおそうと思っている。
が、僕の美術力は高校二年ころを境に霧散したから、難しいかもしれない。
篆刻はこういう柔らかい石に彫刻刀で彫ってつくる。
僕がつくったのもパリン石だった。
僕は持っている本には大体この拙い印を捺してあるから、そのうち僕が飢死にしたら世にでまわるかもしれない。
中には結構貴重なものもあるから、そのうちの数冊は100年後でも誰かの本棚に入っているのではないかと思う。
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